道成寺と髪長姫伝承

 安珍・清姫の悲恋の物語で全国的にその名を知られる道成寺。道成寺ものといわれる能楽や狂言の演目は百以上に上るといわれ、他にも美術絵画から歌謡曲、童謡まで、また最近では“娘道成寺〜蛇炎の恋”と言う映画も公開されるなど、とにかく道成寺といえば安珍清姫である。しかし道成寺には、その開びゃくにまつわる、地元以外ではあまり知られていない、“日本版シンデレラ姫伝承”がある。
 今ふうに言うと7世紀の後期、九海士(くあま)の里(現在の御坊市湯川町のあたり)に、漁師の夫婦が住んでいたが、長年子宝に恵まれなかった。そこで毎日地元の神社に参拝していたら、ある日一人の女の子が生まれた。お宮から授かった子ということで、宮子と名付けられた子は、やがて美しい娘に成長するが、なぜか髪の毛が全く生えてこなかった。

 ある日、いつものように海に潜って漁をしていた母親が、海底で光り輝くものを見つけ、命がけでこれを引き上げてみると小さな観音像であった。大切に家に持ち帰り、毎日手を合わせていると、娘の髪が生えだし、やがて人々から髪長姫といわれる、見事な黒髪の美女となった。
 
 特にこの時代、長い黒髪こそが美人の絶対条件であるが、彼女の髪は7尺余りもあったという。
ある日、髪を解かしていた宮子姫のそばに飛んできたすずめが、抜け落ちた一本の髪をくわえて飛び去り、それがめぐりめぐって、時の右大臣藤原不比等の手に渡った。

 不比等は、この美しい髪の女性を探すよう全国に命じ、やがて宮子姫は藤原家の養女として迎えられる。さらに持統天皇に請われて、不比等の娘藤原宮子として時の皇太子、後の文武天皇の后となった。そうして生まれた子が、後に都に東大寺、全国に国分寺を建立した聖武天皇である。
 もちろんこの髪長姫の伝承は、道成寺の縁起として伝わるもので史実としては疑わしいが、不比等の娘が文武天皇の妃となり、後の聖武天皇の母となったこと。また文武天皇の勅願によって道成寺が建立されたことは史実である。

 道成寺は、701年文武天皇が建てたもので、県内に現存する中では最も古い寺である。そして大小2体あるこの寺の本尊、千手観音像は、国内で最古の部類の千手観音像である。小さいほうの奈良の都のほうを向いて安置された観音像の胎内には宮子姫の母が海底から引き上げた観音像が納められているという。おそらくは、望郷の想い、父母への想いを胸に抱く妻への、文武天皇の愛情の形であろうか。

九海士の里の宮子姫壁画

近づくと

 最後に、和歌山が生んだ作家 有吉佐和子女史が、九海士の里の石碑に寄せた碑文をそのまま紹介する。

道成寺縁起について

和歌山県日高郡にある道成寺は謡曲や
日本舞踊でおなじみの名刹ですが能も踊りも
安珍清姫の伝説によっているのを 私は
つねづね残念に思っていました
道成寺は文武天皇の勅願寺でその縁起は
この『かみなが姫』の物語がもとなのです
 道成寺に残る資料によれば 日高の村長に
生まれた女が母親の犠牲によって丈なす黒髪に
恵まれ やがて藤原不比等の養女となって
入内し 文武天皇の妃となり聖武天皇を出産
した事になっています そのため道成寺は
女人開運を祈願するお寺として有名でありま
したし寺格も高いものだったのですが 数百年
立って清姫が飛び込んで放火してからすっかり
そのお話におかぶを奪われてしまいました
しかし、私は清姫の火の恋よりも
この縁起にみられる母の祈りや いかにも
南紀らしいおおどかな風土を感じさせる髪長姫
の物語の方が はるかに美しく思われますし
好きなのです その気持ちが私に
この筆をとらせたと言えるようです
           在東京 有吉 佐和子
                和歌山県出身