きのくに散策
第二回 高野山町石道

このたびユネスコの世界遺産として登録されました“紀伊山地の霊場と参詣道”のコアゾーンのひとつである高野山町石道は、弘法大師が高野山開山以来、ケーブルカーも自動車道もなかった千百有余年の間、高野山への表参道でした。


 紀ノ川のほとり、九度山町の慈尊院を起点に、高野山壇上伽藍までのおよそ20キロメートルの山道に、一町(約109メートル)ごとに計180基スケッチのような石造の五輪の卒塔婆(私たちは塔婆と呼んでいますね。)が町石、道しるべとして建てられています。

 
ちなみに、卒塔婆とは古代インド、サンスクリット語のストゥーバが、中国で漢字に当てはめられたものだそうで、大は五重の塔のようなものから、小はお墓の後ろに立っている木の塔婆まで元は同じだそうです。

慈尊院と町石道起点の百八十町石

 開山当時には、木製の卒塔婆が建てられていましたが、鎌倉時代になって老朽化したため、当時の有力御家人であった“安達泰盛” (憶えてますか? 数年前のNHKの大河ドラマ“北条時宗”で柳葉敏郎が演じた人です。) らが中心になっておよそ20年の歳月をかけて現在に残る石造の町石と道路が建立、整備されました。

 町石は、単なる道しるべでなく、それ自体信仰の対象として、人々が一町ごとに合掌しながら行き来した、祈りの道、信仰の道です。実際人影もまばらなこの道を歩いてみると、信仰心のない私でも、つい手を合わせてみたくなる、そんな雰囲気がありますから、機会があれば、一度訪ねてみて下さい。全工程20キロを一度に走破しなくても、途中何箇所かのポイント、抜け道がありますので、時間と体力に合わせて挑んでみて下さい。山上の賑わいとは、また違った高野山を体験できますから。

 ただ、町石道でも、熊野古道の那智の大門坂でも、“静寂の中を登りつめたら、そこは観光バスの駐車場と土産物屋であった。”と言うことになるのには正直うんざりさせられますけどね。

世界遺産登録を機に、今さまざまな企画、催しが行われています。もちろん世界遺産に登録されたことは、私たちの誇りであり、喜びであるわけですが、遺産の保護と観光と、そこに暮らす人の生活と、いかに矛盾なく守り育てるか、私たち県民一人一人がこれから考えてゆかねばならないと思います。

町石道を逸れて、高野の地主神を祀る天野の里、丹生都比売(にうつひめ)神社

 “不易流行”という言葉があります。日々技術革新の先端を行く業界に身を置いている私たちでありますが、それゆえなお、仕事を一歩離れたとき、変わらぬ価値のもの、祖先より受け継いできたものを、守り、育み、子孫に伝えてゆきたいと思います。