きのくに散策

第六回 熊野の神々降臨の地 神倉神社 新宮市

神倉神社と記紀神話

新宮市街の西の小高い山の上に、通称“ゴトビキ岩”と言われる巨石をご神体として崇める神倉神社があります。ゴトビキとはこの地方の言葉で、ヒキガエルのことらしいですが、そう言われて見れば・・・・・見えなくも・・・・・?ウーン?・・・・・?

熊野といえば熊野三山と言われる、本宮、速玉、那智が圧倒的にメジャーですが、これら熊野の神々が最初に天上から降り立った“天磐盾(あまのいわだて)”と言うのが実はこの岩山であったと伝えられ、その意味で熊野信仰の根本とされています。


神倉神社ふもと

ふもとの案内板

ゴトビキ岩1

ゴトビキ岩2

 ふもとからは、急峻な斜面に、源頼朝が寄進したと言う石段が築かれていますが、これが相当ハード!特に下りは、初めての人はちょっとビビリますヨ!毎年2月6日には“御燈祭”という、白装束をまとった男たちが、松明を手に一斉にこの石段を駆け下りるという勇壮な火祭りが行われますが、この石段を見下ろすと、・・・・ちょっと信じがたい!でもぜひ一度見てみたい祭りです。


鎌倉積みの石段

御燈祭り

この神社の主祭神である“高倉下命(たかくらじのみこと)”は、記紀神話の神武東征の際、夢の中で天上の神々の依頼を請けて、窮地に陥っていたイワレヒコ(後の神武天皇)に、フツノミタマと云う聖剣を届け、皇軍の危機を救った人で、熊野三党といわれる、宇井・鈴木・榎本氏の祖とされています。


神倉神社由緒

なおこのときのイワレヒコのピンチについて、古事記では、荒ぶる神の化身の大熊に出くわした時、その毒気に触れて全員意識を失ってしまったとあり、日本書紀では、丹敷戸畔(ニシキトベ)と云う、この土地の豪族を討った時、戸畔(部族の長の女性、巫女さんのような女性が部族を統率していた?)が神毒気(アシキイキ)を吐いて人々を萎えさせた、とされています。

記紀における神武東征の話あたりは、ちょうど神話から歴史物語に変わってゆく境目に当たるわけですが、ひとつの事柄でも、記述のされ方は上記のようにかなり異なっています。まず古事記は日本語の言葉に漢字を当てはめた(いわゆる万葉仮名)に対し、日本書紀の原文は漢文で記載されています。ちなみに神武天皇の即位前のお名前“カムヤマトイワレビコノミコト”古事記の記述では“神倭伊波礼毘古命” 日本書紀では“神日本磐余彦命” と記されています。

 また上記のように、おはなし的な記述の多い古事記に対し、日本書紀には何年何月何日にどうしたといった記述が多くなされています。これは一般国民向けに、国の成り立ちや皇室の由来を語った古事記と、律令国家の公文書としての意味を持った日本書紀と云う捕らえ方をしていただけたらいいのではと思います。いずれにせよ、その内容や年代がすべて事実とはとうてい思えませんが、ギリシャ神話のトロイの遺跡が実在したように、何らかの事実の上にそういったいわれがあるのであって、決して根も葉もない作り話、などと一蹴することはできないと思います。

続きは神武東征記きのくに編