きのくに散策

第七回 天下人に咬みついたきのくにの猛者達

                             イメージは根来寺多宝塔

もう十数年も前になりますが、「信長の野望」なるシミュレーションゲームがありました。当時結構人気のゲームソフトで、いくつかのシリーズも出ましたので、ご存知の方も多いと思いますが、このゲームの中で、我が紀州は「鈴木佐太夫」なる大名の下、最初からかなりの数の鉄砲を保有していて、「鈴木重朝・重秀」という結構戦闘力の高い武将が居る国という設定になっていました。その時、こんな人物本当に居たンやろうか?と思っていたら、鈴木重朝というのは、どうやら伝説の人、「雑賀孫市」らしい?ということを誰かから聞き、なんとなく「そうやったンか!」と納得したものでした。

 戦国時代、「雑賀孫市」なる豪傑が鉄砲隊を率いて信長に挑んだことや、根来寺の僧兵のこと、あるいは、本願寺の僧が雑賀崎の洞窟にかくまわれた話や、太田城の水攻めの話など、子供のころから断片的には聞いていましたが、それらのことが何故起こったのか、あるいはどういった流れで、どう結びついているのか、となると、まるで?????です。それなら戦国の世の、我がきのくにがどうなっていたのか、一度訪ねてみる事としました。

                

鉄砲伝来と根来・雑賀
 我々も学校で習ったように、天文12年(1543)種子島に漂着したポルトガル人によって、我が国に初めて鉄砲がもたらされました。このことも最近は諸説あるようですが、基本的に、これが我が国に鉄砲が広まるきっかけとなったことは間違いありません。このとき領主の、種子島時堯は二挺の鉄砲を手に入れましたが、そのうちの一挺が「津田監物算長(つだけんもつかずなが)」によって紀州根来にもたらされました。

 当時の紀州は、名目上は守護大名畠山氏の支配下にありましたが、実質その権威は無く、またそれに取って代わって全体を統治するような大名も現れずに、高野山や根来寺などの大寺社勢力や、各地の土豪勢力が割拠しているといった状態でした。中でも根来寺を拠点とする「根来衆」と、和歌山市の土豪集団「雑賀衆」は大量の鉄砲で武装した傭兵集団として各地を転戦し、時に天下人をも震撼させるような活躍をしました。

根来寺全容(背景が和泉山地)
 当時の根来寺は、寺領72万石、堂塔2700余、僧兵2万とも3万とも言われる紀伊、和泉、河内にまたがる大寺院、というより一種独立国家でした。
  その構成は学侶という純粋の僧侶と、行人という寺の雑役や管理、防備をつかさどる人々に分かれていました。僧兵というのはこの行人のことです。
 また杉之坊、泉識坊、」岩室坊などといった多くの子院に別れていましたが、根来に鉄砲をもたらした津田監物というのは、この杉之坊の院主明算の兄に当たります。杉之坊の院主は、代々小倉の豪族津田家から出されていました。


県指定文化財「紙本淡彩根来寺伽藍古絵図」

大門 1850年再建の県指定文化財

多宝塔 根来攻の戦火を免れた

我国最大の木造多宝塔 国宝

大師堂 大塔と共に残る 中の須弥壇と共に重要文化財

一乗閣
 M30〜S13年まで使われた旧県議会議事堂  この地に移転保存
 雑賀衆というのは、雑賀五組といわれる、現在の和歌山市と海南市の一部にまたがる五荘郷、つまり紀ノ川南岸の海岸よりの雑賀荘、紀ノ川北岸の十ヶ郷、日前宮の領地の宮郷、和歌山市東部地区の中郷、和歌山市東南部から海南市に到る南郷という地域にひしめく豪族たちの総称です。
 彼らは互いに姻戚関係や地縁関係で複雑に絡み合い、時に争いながらも、一種合議制的な自治を行っていたようです。ただ残念ながら、イメージにあるような天下人に対する“一枚岩の団結”的なものはあまり見られず、内部の対立によってやがて終焉を迎えることになっていきます。


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