きのくに散策

第九回 ここは大島 向かいは串本



ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船    アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ

ここは串本 向かいは大島 橋をかけましょ 船ばしを アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ

潮岬に灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ      アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ

あしのショラサン岬の沖で 波にゆられて鰹釣る     アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ

大島水谷 かかりし船は お雪見たさに潮がかり     アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ

障子あくれば 大島ひと目 なぜに佐吉は山のかげ   アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
 

                             
(歌詞及びBGMは串本町観光協会様のHPよりお借りしています)

 
和歌山を代表する民謡、串本節に唄われる紀伊大島。ところが、大島の人たちに言わせれば、ここは大島、向かいは串本、中をとりもつ巡航船、というのが正調の歌詞であり、それが大正時代以降、串本の方の宣伝、売込みが派手で、いつのまにか本家のこちらが、すっかりそのお株を奪われてしまったのだそうである。

ここは大島 向かいは串本
 その真偽のほどはともかく、串本節に限らず、民謡の元唄の出所というのは、土地土地で諸説あるものであろうが、おもしろいことに、串本節の起源説があるのは、いずれも海岸沿いの土地に限られ、山ひとつ超えただけの土地では、もうまったく唄われていなかったという。
 この唄の歌詞にある、ショラサン(恋人)や、紀南地方独特のカツオ漁法として知られる、ケンケンなどという言葉は、ハワイ方面の原住民の言葉である。
 黒潮踊る太平洋を眼前に暮らしてきたこの地方の人々にとって、その海原の向こう、フィリピン、ミクロネシア、ハワイなどといった土地は、そんなはるかな彼方ではなく、むしろ、東北や北陸などといった土地よりももっと身近な存在であったかもしれない。串本節は、そんな、潮風と、波音に育まれた唄であることは確かである。


仲をとりもつ串本大橋 対岸左手が潮岬
 串本節に唄われる、中をとりもつ巡航船も、平成11年の串本大橋の開通に伴い、現在はその長かった歴史に幕を引いている。
 串本と大島の間に橋を架ける事は、この地の人々の長年の悲願であったことは、橋杭岩というのが、弘法大師が大島に橋を架けようとしてできなかったその橋げたであるという伝承があることからもうかがわれる。
 そう思えば、まさに千年来の悲願が叶った訳であるが、大島港の桟橋に吹く潮風には、やはりどこか哀愁が漂っている。
 
 
 今は訪れる人もまばらな、小さな漁港であるが、かつての大島港は、“天下の台所”と云われた、経済の中心地大阪と、当時世界一の大都市=大消費地、江戸とを行き来する廻船(貨物船)の停泊港として、今では想像もつかない活況を呈していた。動力など持たない船の時代である。大阪を出た船は、この港に留まり、風待ち、潮待ちをした後、再び江戸に向け乗り出して行った。島にはまた当然のように、そんな船乗り相手の遊郭も栄えていた。
 串本節に、“障子あくれば 大島ひと目 なぜに佐吉は山のかげ”と唄われる、佐吉と云うのは、人の名前ではなく、佐吉楼という遊郭のことである。こうした大島の賑わいは、昭和のはじめ頃までは続いていたと云う。
 

串本の姫海岸から見た橋杭岩
大島に向かって伸びている
 大島の東端に突き出た断崖の上に建つ樫野崎灯台は、明治3(1870)年に初点灯された、日本最初の石造洋式灯台で、また最初の回転式閃光灯台である。(ちなみに日本最初の洋式灯台は、明治2年初点灯されたレンガ造の観音崎灯台、これから明治6年までの間に、全国の海上交通の要所13ヶ所に灯台が建設された。このうち和歌山では、隣の潮岬灯台が明治6年、以前紹介した、友ヶ島灯台が明治5年と、計3ヶ所に建設されている。)
 

樫野崎灯台
 
 灯台そのものは、何度かの改修を経て現在に至っているが、その横にある、おそらく職員の宿舎跡であろうか、見るからに頑強そうな石積みの建物などは、灯台建設当時のままのものである。(現在は完全に閉鎖されていて、中をうかがうことはできないが)幾多の台風の直撃にも耐えてきた、わが国有数の石造の洋風建築物のひとつと言う事であるので、なんとか保存と公開を望みたいものである。

灯台と宿舎跡?

海金剛から樫野崎を望む
 
 大島の海岸は一部の砂浜を除き、その大半は断崖絶壁に囲まれている。なかでも樫野崎から西の海岸線は、海金剛と呼ばれる、浸食によってできた荒々しい断崖に太平洋の黒潮がまともにぶつかって砕け、黒い岩礁が牙のように波間に見え隠れする。なんとも豪快な海岸美を呈している。
 観光客には海岸美であるが、古来より船乗りにとっては命がけの難所である。明治23年、日本への親善使節650人を乗せたトルコの軍艦エルトゥールル号が座礁、581人の犠牲者を出すという事故があった。

海金剛

ここで座礁

 みなさんはトルコという国を知っていますか。トルコはアジアとヨーロッパの中間に位置していて、アジアとヨーロッパの文化の交流点になっています。トルコ人には親日家が大変多く、「どこの国へ行ってみたいですか」と聞くと十人中九人までが「日本へ行きたい」というほどだそうです。トルコの人たちがこれほど日本人を好きになってくれた最初のきっかけが、これからお話しする「エルトゥールル号の遭難」という事件です。
 十九世紀末、日本では明治新政府が誕生したころのことです。このころオスマン・トルコ帝国も日本と同じような立場にありました。両国とも同じように国内の改革を進め、対外的にはヨーロッパ列強に対し、平等な扱いを認めさせようと努力していました。当時のアブドル・ハミト2世は明治天皇への特派使節としてオスマン・パシャ提督を選び、日本に派遣することを決めました。
 トルコの使節団総勢650人はエルトゥールル号に乗り込み、約一年をかけ遠路はるばる航海して、1890年(明治23年)6月5日に横浜に到着しました。一行は上陸すると盛大な歓迎を受け、明治天皇に拝謁して晩餐会が催されました。
 目的を果たした一行は、9月15日に帰国の途に就くことになりました。ちょうど台風シーズンにあたるこの時期に出向するのは危険だとして日本の関係者は帰国を遅らせるよう勧めましたが、オスマン・パシャ提督は「私たちはアラーの神に守られ、インド洋の荒波を越えてやってきたのです。心配には及びません」といって出発してしまったといわれています。
 運命のいたずらか、エルトゥールル号は神戸に向かって航行中台風に遭い、和歌山県大島の樫野崎沖において難破沈没してしまったのです。オスマン・パシャ提督を含む587人が死亡するという大惨事でした。生存者は69人で、翌日の未明にかけて岸に流れついた人々は、地元大島の村人に救われました。
この大惨事に対して日本は生存者の救助、介護、犠牲者の遺体、遺品の捜索、船の引き揚げなど事後措置を官民あげて手厚く行いました。義援金の募金が広く行われ、樫野崎に慰霊碑も建てられました。生き残った69人は軍艦「金剛」「比叡」により丁寧に送還されました。
 イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた追悼歌の楽譜などが展示されています。
 この日本の手厚い事後措置にトルコの人たちは感激しました。これ以来、今日まで日本とトルコは深い友情で結ばれているのです。
 以上藤岡信勝氏著 “教科書が教えない歴史”より転載

 樫野崎の駐車場から灯台に向かう道筋にあるこの慰霊碑は、遭難海域を眼下に見下ろせる丘の上に建てられている。現在の慰霊碑は昭和天皇の行幸を期に、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマルの申し入れによって、遭難50周年式典に合わせ、昭和12年に除幕されたものである。
 以後5年に一度の慰霊大祭が、トルコ共和国との協賛で行われるほか、駐日トルコ大使や武官の新任時には必ず献花に訪れる。また地元小学生による、清掃奉仕活動も行われている、

慰霊碑

遭難場所
 五年ごとの同式典は慰霊にとどまらず、両国友好を願う者が、一堂に会し現在の友好繁栄の原点に合ったものに立ち返り、今後のさらなる友好発展のための気持ちを新たにする場となっている(前串本町長談)という。
 昭和60年、中東ではイラン・イラク戦争の真っ只中のころ、あのサダム・フセインは、「3月20日午後2時(日本時間)以降、テへラン上空を航行する航空機はいずれの国のものであろうと撃墜する」と表明、欧州各国は急遽臨時便を出して、自国民の救援に当たったが、外務省の救援機派遣要請に対し「帰る際の安全が保障されない」として日本航空はイラン乗り入れを断念した。
 テヘランの空港にとり残された日本人は、最終的に200人あまり。刻々と迫るタイムリミット。もはや国外脱出は不可能と思われた矢先、トルコ航空機がテへランに乗り入れ、邦人215人を救出、タイムリミットぎりぎりに、トルコ領空にとって返したのである。
 このときなぜトルコが危険を冒してまで、在留邦人の救出に当たってくれたのかということについて、某おはようさん新聞では、「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していること」などが影響しているのではないか、と語っているが、こんな経済援助への見返り行為であったかのような表現はトルコ国民への冒とくであろう。いつもながらなぜこの新聞社の記者はこんな貧しい発想しかできないのか。
 トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏がエルトゥールル号遭難に関して、平成9年産経新聞に語ったコラムがある。
 悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レベルの友好関係の始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。エルトゥールル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も 幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。
 一世紀を経た昭和60年に身の危険をも顧みずトルコがテへランに孤立した日本人を救出したのは、エルトゥールル号事件に対する恩義を背景として培われた親日の行為だったのであろう。この互いに“当たり前のことをしただけ”の私たちの郷土の先人を、誇りを持って語り継ぎ、同時に他国の人々を敬い、その厚意に感謝する、そういう心が真の国際の友好を育むのであろう。
 今回紹介したエルトゥールル号遭難事件の顛末について、インターネット上では、“トルコの時代”というHPに、児童文学作家の木暮正夫氏が紹介しているので、一度読んでみて下さい。 


 今年(平成20年)1月15日から、エルトゥールル号の遺品の引き揚げ作業が始まるという。はたしてどのようなものが出てくるか、何か友好の象徴になるようなものが見つかってくれることを願ってやまない。