熊楠交遊録
1)孫文 熊楠は大英博物館の東洋部図書部に在籍中、清王朝打倒に失敗し、日本、アメリカを経由してイギリスに亡命してきた孫文を、部長のロバート・ダグラス卿から紹介され意気投合する。満洲族(女真族)支配の清王朝下で、さらに西洋諸国に半植民地化された漢民族の独立国家建設が孫文の志であった。学問と政治と、道は違えど、それぞれの祖国を思う気持ちには通じるものがあったであろう。その後も書簡の往復や、先にも触れたが、熊楠帰国後も孫文の来訪を受けたりしている。
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孫文 |
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2)フレデリック・ディキンズ 同じく熊楠が英国滞在中のロンドン大学事務総長。若いころ英国軍医将校として幕末の日本に滞在し、英国一の日本通を自認していた彼は、書き上げたばかりの「英訳竹取物語」を若い熊楠に見せたが、手厳しい批評を受け激怒、しかし後になって冷静に考えると、確かに熊楠の指摘は正しいと気付き深い感銘を受ける。「ミナカタは、予が見る日本人のなかで最も博学で剛直無偏の人。」 ディキンズは熊楠をそう称えて、我が身の無礼を詫び、 終生変わることのない親交を結んだ。「方丈記」などの共著も先に触れた
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F・ディキンズ |
3)土宜法竜(ときほうりゅう) のちの高野山管長。明治26年、土宜はシカゴで開かれた万国宗教大会に日本代表団の一員として出席した。帰路パリのギメー博物館の要請で、五ヶ月間そこに滞在していた時、ロンドンの熊楠と出会い、以後30年に渡り往復書簡が交わされる。
熊楠の世界観、宗教観に大きな影響を与えた人物。土宜法竜と熊楠の間で交わされた書簡はきわめて思想性が高く難解。「南方曼陀羅」とも呼ばれる熊楠の思想の全容に分け入ろうとする時、最も重要な資料のひとつとなっている。熊楠は土宜の高野山管長就任後の大正9年と10年の二度、高野山に滞在している。 |

土宜法竜 |
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4)柳田 國男 日本の民俗学の父と称される人。熊楠の発表した論文がきっかけで交流が始まり、これが我国の民俗学草創期の礎となる。熊楠の神社合祀反対運動に際し、当時内閣法制局参事官であった彼は、行政への働きかけに尽力した。熊楠のことを「日本人の可能性の極限」と称賛し、敬愛していたという。
熊楠没後
昭和16年12月、南方熊楠は波乱の74年の生涯を静かに閉じる。
冒頭に紹介した陛下の御製は、熊楠顕彰に大きなはずみとなり、昭和40年には白浜町に南方熊楠記念館が開館。熊楠の超人的な足どりが人びとの前にようやく明らかになった。
一方自宅に残された未発表の膨大な資料や蔵書は遺族の手で大切に保存されていたが、平成の世になって、保存顕彰会が組織されてその研究が始められた。平成12年に長女文枝が亡くなった後、その遺志によって旧邸と蔵書・資料はすべて田辺市に寄贈され、平成18年には旧邸隣地に南方熊楠顕彰館がオープン。資料のデジタル化・データベース化が進められてきた。今後は未刊行の部分の多い日記や書簡など重要資料の翻刻が、顕彰館を中心におこなわれようとしている
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柳田 國男
リンク
南方熊楠顕彰館
南方熊楠記念館 |