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神武東征記きのくに編 登場人物?一覧 天孫四兄弟 =イツセ・イナヒ・イリノ・イワレヒコ イツセ =五瀬命(イツセノミコト)四兄弟の長男、和歌山市の竈山神社に祀られる イナヒ =稲飯命(イナヒノミコト)四兄弟の次男 イリノ =三毛入野命(ミケイリノミコト)同三男 イワレヒコ =磐余彦命(イワレヒコノミコト)同四男、後に神武天皇として橿原で即位 アマテラス =天照大神(アマテラスオオミカミ)天界を治める太陽神 タケミカヅチ=建甕槌神(タケミカヅチノカミ)出雲の国譲りを取り付けた軍神 タカクラジ =高倉下命(タカクラジノミコト)熊野で皇軍の危機を救った人 フツノミタマ=布都御魂剣タケミカヅチの持つ聖剣=ヤマタノオロチ退治のトツカの剣 ヤタガラス =おなじみ日本サッカーチームのシンボル 山中で皇軍を導く ナグサトベ =名草戸畔 今の和歌山市の紀三井寺地方の部族の女王 ニシキトベ =丹敷戸畔 熊野の部族の女王 丹敷温泉のあたり?
1)序 章 天孫として日向の国高千穂に降臨したニニギノミコトの曾孫に当たる、イワレヒコら四兄弟は相談して、広く天下を治めるのにふさわしい都を、国の中心地である大和の地に築こうと、東征の途に旅立ちました。日向から瀬戸内海を進み、浪速の国から川をさかのぼって河内の国に入りましたが、この地を支配するナガスネヒコの激しい抵抗を受けて敗走、長兄のイツセも重傷を負います。 軍儀で、“我々は日の神アマテラスの子孫であるのに、太陽に向かって戦っているからいけない。これからは太陽を背にして戦おう”とのイツセの提言により退却、体勢を立て直して南から攻略すべく、海路“きのくに”に入ります。 2)イツセの死 大阪湾を廻って、きのくににたどり着く頃には、イツセの傷は致命的なものになっていました。古事記では、“紀(きの)国(くに)の男之(おの)水門(みなと)に到りて詔(の)りたまはく、「賤(いや)しき奴が手を負ひてや死なむ」と男建(おたけび)して崩(かむあが)りましき。故(かれ)、其の水門(みなと)を号(なづ)けて男(おの)水門(みなと)と謂(い)ふ。陵(みはか)は紀国の竈山(かまやま)に在り。” 〈紀の国の雄湊にたどり着いた時、力尽きたイツセは、「卑しい賊の手に掛かって死ぬことになるなんて、不覚じゃ〜!」と雄たけびを上げながら亡くなりました。それゆえその地をオノミナトと言います。そしてその御陵は竈山にあります。〉と記されています。 オノミナトは、和歌山市の紀ノ川河口近く、R26紀ノ川大橋の東詰め、“小野町” “男野芝丁” と言った地名や、“雄湊小学校”などが現在もあります。(なおオノミナトを泉南市の男里とする説もあり一般にはこの説が有力ですが、古事記では紀国の男之水門となっているので、ここではそうしておきましょう。) また竈山とは、市街の東部、和歌山市和田の竈山神社というイツセを祀る神社。ここの社殿の背後に、彼を葬っているという古墳があります。 3)ナグサトベ その後神武軍は、“名草邑(なくさむら)に着き、名草(なぐさ)戸(と)畔(べ)という女賊を誅した”と日本書紀では簡単に記されています。名草戸畔の人物像や、戦いの様子を伝える記録はどの書物にも見られません。今の、紀三井寺、布引あたりは、当時は海であったはずですから、名草邑というのは多分名草山の東に広がっていたのではと思われます。 戸畔について、部族の女王としましたが、邪馬台国の卑弥呼に代表されるように、祭祀を司る巫女的な女性が、部族を統治する制度が、古代の社会では一般的だったのでしょう。従ってナグサトベというのは、特定の個人名でなく、名草村村長といった意味のもので、何代にもわたって存在した中の一人と思います。和歌山市や海南市には、名草姫を祭神とする神社がいくつかありますが、(中言神社、内原神社、名草神社等)神武東征の時のナグサトベとのつながりは不明です。 また名草山の南東部に当たる、海南市小野田の宇賀部神社、同市阪井の杉尾神社、同市重根の千種神社はそれぞれ地元の人たちから、“おこべさん”(こうべ=頭の神様、受験生の親に人気) “おはらさん”(お腹痛けりゃ杉尾のお宮) “あしがみさん”(神前に履物を供え、足腰の無病を祈る)と呼ばれ、親しまれていますが、地域の伝承では、神武軍に敗れ、殺されたナグサトベの体が、頭、胴、足と切断されて葬られた地に造られたのがこれらの神社であると云われています。 亡骸を切り刻むなど、ずいぶん残酷な話のようですが、古代の神話には、死んだ女神の体の各部から、稲や粟などの穀物が生まれるという話がよく見受けられます。女体をかたどったとされる土偶が壊されて埋められているのも、五穀豊穣を祈念した祭事であったと言われています。そうしたことから、自分達の長であったナグサトベの遺体を切り刻んで葬るというのも、五穀豊穣を願う民のごく自然な行為であったのかもしれません。
イワレヒコらはさらに紀伊半島沿いに南下し、やっとの思いで狹野(新宮市佐野)を越えて、熊野の~邑(みわむら)にたどり着き、天磐楯(あまのいわたて)に登りました。 “表紙の神倉神社のゴトビキ岩の所ですネ!” しかしなぜ彼らはわざわざこの地まで迂回して来たのでしょうか?南から河内や大和を攻略する目的だけであれば、紀ノ川沿いにさかのぼって行ったほうがよっぽど容易に行けるはずでしょうが・・・・・? 書記にはその理由は述べられていませんが、大和の地に安定した国を築くためには、まず熊野を平定することがどうしても必要であったのか、あるいははるか古にこの地に降り立ったという祖神にまみえる為に、神の国、死者の国とさえ言われたこの地まで来たのか、“遂に狹野を越えて、熊野の~邑に到る。且ち天磐盾に登る。”という日本書紀のわずか一行の記述には、何か戦略上の目的以外のものも感じられます。 その後さらに進むべく船を出しますが、沖で暴風雨に遭遇します。この時次兄のイナヒは、「我らの父の祖は天神、母の祖は海神であるのに、なんで陸でも海でもこんなにも進軍を阻まれねばならんのか!(いっぺん行って聞いて来ちゃら)」と言って剣を抜き、海に飛び込んで、鋤持神(さびもちのかみ)“?イマイチ意味不明スミマセン!”となり、続いてもう一人の兄のイリノも、「我らの母も叔母も海~の娘やのに、何で波が我らをさえぎるのか!(いっぺん怒って来ちゃる!)」と波頭を踏んで常世国に行きました。 つまり嵐に逢って遭難、二人の兄も命を落としたと言うことですが、それでも何とか熊野の荒坂津(あらさかのつ)にたどり着き、体勢を立て直して、この地のニシキトベを誅したとされています。 なお、この場所について初めに、那智海岸の近くの丹敷温泉のあたり?と紹介しましたが、(この近くの熊野三所大神社〈くまのさんしょおおみわしゃ〉には摂社としてニシキトベが祀られています。)他に新宮市の三輪崎、三重県熊野市の二木島や、大紀町の錦地区などとする説もあります。いずれにせよ荒坂津は、目的とした場所ではなく、遭難してたまたま漂着した地であったのでしょう。しかし新宮からまた船出して、彼らはいったい何処へ行こうとしたのでしょう?
5)タカクラジとヤタガラス 神倉神社の処で紹介したように、ニシキトベを誅した時、彼女の放った神毒気(アシキイキ)によって神武軍は総崩れとなります。この時天上のアマテラスは、熊野のタカクラジに夢を見させます。彼の夢の中で、アマテラスから援軍に征くよう要請を受けたタケミカヅチが、「自分が出向かなくても、地上を平定した時の聖剣“フツノミタマ”さえ届ければ大丈夫」と答え、タカクラジに向かって、「お宅の倉へこの剣下ろしとくよって、スマンけど明日イワレヒコに届けて来てくれ」と言いました。 翌朝タカクラジが倉に行くと、そこには全長271cmの大剣が地面に突き刺さっていたので、急ぎイワレヒコの元に届けました。すると眠っていたイワレヒコ初め全員が目覚め、また進軍を再開しました。しかし山深い熊野の地、土地勘のない皇軍は道に迷い、進むことも戻ることもできなくなります。そんな時イワレヒコの夢にアマテラスが現れ、「ヤタガラス遣わすよって、ついて行きなさい」と言い、翌日一羽のカラスが舞い降りてきました。こうしてヤタガラスの導きで、熊野吉野の山々を超えて征きます。 タカクラジもヤタガラスもおそらく熊野の豪族であったのでしょう。難破して壊滅寸前に陥っていたイワレヒコを助け、ニシキトベとの戦いに軍事力を提供した豪族がタカクラジ。山行を先導し、また立ち向かう部族との交渉にも当たったであろう豪族がヤタガラスに象徴されているのでしょう。 こうして深い山を超え、敵対する豪族に打ち勝ったイワレヒコは、大和の橿原の地に都を開き、初代天皇として即位されました。 日本書紀&神武東征関連リンク |